三歳で亡くなった息子、良一を名乗る男がお草さんの前に現れた…、ざわざわする。吉永南央さんの「初夏の訪問者 紅雲町珈琲屋こよみ」を読む。
「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズの、はや、八作目。
和食器とコーヒー豆を販売する粋な店、小蔵屋を経営するお草さん。
緩やかで、優しい物語ではあるが、決してそればかりでなく、
少しばかりの苦味や、哀しみが流れている。
年を重ねる大人たちが、誰しも感じる寂寥感や焦りのようなものを
真正面から突き付けるのではなく、じんわりと思い起こさせる物語。
それは、お草さんの年齢のせいか、それとも、
若いころ、幼い息子を取り上げられたまま婚家を追い出され、
その後すぐ、その息子を水の事故で亡くすという
彼女の過去せいなのか。
今まで出来たことが出来なくなったり、
残された時間が短いことに、ふと気づく。
老いというものを認めながら、それでも、向こうへ追いやりながら、
今日という日を誠実に生きる。
その生き方の裏には、息子を残してきたという
数十年たっても消えない悔いがあるからか。
お草さんがする、遠慮がちなお節介には、
その悔いが根底にある。
「誰かが一言、声をかけていれば、見守っていさえすれば」
最悪な事態になる前に止められるかもしれないと。
そして、遠慮がちに差し出す手に、どれだけの人々が救われていることか。
時には、切なく悲しい結末もあるけれど、
「そのまんまを受け入れていくしかない」と言われているような気がする。
さて、今作は、お草さんの悲しい過去にまつわる物語。
「自分は、あなたの息子の良一だ」という男が現れる。
そんなはずはない、と思いながらも、揺れ動くお草さん。
過去と向き合うことに。